悶々女子が広がりをみせる背景には?
政府のみんな同じ、誰もがプリンセスみたいな教育がおそらく原因なんだと思う。
現在の学校教育では、努力してもしなくても、そんなに大きく評価は変わらない。たとえば学校の授業で先生の質問に毎回答えようと手をあげても、その子はさされず、他の子をさそうとする。
幼稚園の御遊戯会では、シンデレラが10人なんてこともある。
みんな“プリンセス”なんておかしな状況が起こる。
“平等”という響きは良いが、その言葉が何だかおかしな状況を作り出している。
子どもの親は自分たちが育ってきた環境とは違うのに、そういった環境を受け入れてしまうし、子どもはもちろんその考えが正しいと思ってしまうだろう。
そんで、子どもが大人になってくると、プリンセスであったはずの自分が、立ち木Aやトランプの兵隊Dになるような状況に立たされる。
その状況を多くの人が受け入れるが、目の前の状況を受け入れられない人もなかには出てくる。こんなはずじゃない、ホントの自分の評価じゃない、という考えになるんだろう。
この“じゃない”という気持ちを抱いた瞬間、それが“悶々女子”の誕生の瞬間である。
“じゃない”という言葉
漢字にしてみると、“邪ない”
“邪”は「ジャ 、よこしま」という読み方になりますね。
つまり、自分は“よこしまではない” と言ってることと変わらないのではないかと。
口から出る言葉は、「じゃない」
心の中の気持ちは、「よこしまではない」
でも、「自分は〇〇ではない」って、自分で言う人ほど、実はそうだったりしますよね?
言ってることと逆だったり。
まあ、よこしまさが1ミリもない人って滅多にいないわけですから、多くの人は自分にはダメなところもあるねと受け入れているでしょうが、まったく受け入れない、むしろ拒絶するのが悶々女子といえるかも。
だから、自分のことを分かってくれる人を求めます。
この人は自分を分かってくれると思うと、その人の評価が高まるし、そうでない人の場合は、評価を下げる。ようはアゲ鑑定でないとダメなんです基本は。
また、自分のことを分かってくれるという意味では、同じ悶々女子とはマッチします。
悶々女子に効く魔法の言葉とは?
悶々女子歴が長くなると、猜疑心が非常に高まったりします。
たとえば、他人から褒め言葉をかけられても、
「何企んでいるんだ、こいつ。下心が絶対ある」
なんて考えるんですね。
距離感が近い相手でないと、かなり穿った見方をすることはアルアルです。
だから、なかなか悶々女子に刺さる言葉ってのが見つからないんですが・・・。
「何でみんな悶々ちゃんのこと、分かってくれないんだろうね?」
こんな言葉が効くんじゃないかと、まことしやかにささやかれています。
確証は取ってませんが、たしかに響くのかもしれないとちょっと思っています。
なぜなら、
この言葉は悶々女子の心の声をストレートに代弁するものであること。
そして、いかにも褒め言葉ってわけじゃないこと。
実際にはこの言葉の前後のやり取りで左右することはあるでしょうが、この2点から刺さるのではないかなと考えています。
悶々女子は、最終的に幸せになれるの?
こんなところで夢を持たせてもしょうがないので、はっきりと伝えますね。
「悶々女子が、悶々女子でいる限りは“無理”!」
悶々女子でいる限りはと書いたのは、変われば無理ではないということです。
悶々女子は、本来人が幸せだなと思うことが自分に訪れても、“幸せ”の感覚がマヒしてるせいか、幸せだと感じません。なぜ?どうして?と思うかもしれませんが、悶々女子の始まりを知れば(読み返せば)分かりますよ。先に書いたように、悶々女子は、自分はプリンセスだというところがスタートです。だから、自分に“幸せ”なことが起こっても、それよりも幸せな人や理想とする人が基準(一番上)なので、幸せだという感覚にはならないんです。
たとえば、それは戦争や紛争のある地域で生まれ育った子どもが戦争のない日常を幸せだなと感じるのに、日本人が毎日平和なことを幸せだとあまり認識しないのと同じような感覚です。
でも、何かしらのきっかけで悶々女子を止める時、幸せを手にすることができます。
悶々女子を止めるきっかけとは?
何かしらのきっかけと書きましたが、好きな人ができたとか、結婚とかはあまり関係ないですね。結婚しても、悶々女子は続きますしね。
そういうものがキッカケというよりは、自分自身の“心の変化”です。
今の自分自身を受け入れるとか、状況や状態を受け入れるなど、別の言葉にすると、“寛容さがでる”ってことでしょうかね。前に書いた記事では、心の扉を開くという表現や開門女子と書いたと思いますが、そうした状態です。
それがキッカケになりますね。
Source: マリーシェルと愉快な仲間たち